top of page
検索
  • 執筆者の写真kaori nakao

子どもだけじゃない大人にも「愛」が必要!

大変にご無沙汰してしまいました。 一般社団法人Telacoya921の発祥の地と位置付けられる「おうちえんTelacoya921」(認可外幼稚園)の卒園式が3月20日春分の日に無事に終了した。 毎年、たくさんの人の愛に溢れるこの日は、私の法人にとって勝手ながら「自画自賛の日」となっている。 参加する卒園児と家族はもちろんのこと、そのお祝いに駆けつけようと卒園した小学生とその家族も参加してくれる。来賓の皆さんも、心からこの子どもたちの成長を喜んで下さる方ばかりである。 これだけの人たちの「愛」が溢れるこの日は、私たちスタッフにもその「愛」が注がれて、とてもシアワセな気持ちになる。 大人だって「愛」が必要。 大人だって「愛」に包まれるとシアワセになれる。 参加して下さったたくさんの方から、「心が浄化されたような卒園式だった」「疲弊していた気持ちがまっすぐに戻された」「卒園児の親でもないのに、号泣した」などと言う言葉を頂いた。


誰もがシアワセな気持ちになれる日。 そんな日を作れたのだから、私たちいいよね!私たちいい園を作ったよね!とスタッフ一同自画自賛して満足する日にしている。 「愛」と調べると、福原愛、不倫とか出て来てしまうのは、置いておいて、「愛」と言う言葉そのものは、「そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち」とある。 「愛情」は、「深く愛し、慈しむ心」となっている。

今日伝えたいのは、大人にも「愛」が必要だと言うこと。 大人になって「愛」を感じるのは、男女の愛が思い浮かぶが、それ以外ではどんな時だろう?


いくつになっても注いでくれる親の「愛」これも不滅なもの。


あとは? 「愛」を持って接してくれる職場の人、友人たち。


そんな中、今年は若手の先生しーちゃんがTelacoyaにやって来た。平均年齢の高いTelacoyaスタッフの中で、光り輝く20代!初めての担任。そして年長クラス! 当然のことながら、保護者側から見たら正直往年のオババーズ(ベテランたち、うちではそう呼んでいる)の安定感には叶わないので、「頼りなさ」を感じたことだと思う。 でも、昨日の卒園式の後では、そのしーちゃんの成長ぶりについて語ってくれる保護者がたくさんいた。 子どもの成長と同じように、しーちゃんの成長を見守り、喜んでくれていた。 「4月の頃のしーちゃんは帰りの引き渡しの時も、緊張していて、保護者との話も一生懸命に話してなんとか終わらせて、すぐにオババーズを呼んでいたよね〜」とか。 「3月のしーちゃんは、堂々としていて、成長を感じた」とか。 「先生なのにそんなこと言っちゃ失礼かも知れないけれど、お母さんたちよりずっと若いしーちゃんが頑張っている姿を応援したり嬉しく思ったりしてて」とか。 そう言ってもらえる根底には、年長児の子どもたちがみんなしーちゃんを大好きだったから。 子どもたちの中には、「カオリ(私)がボスなんでしょ?知ってるよ〜ニヤリ」と言う大人の位置付けの話をする子どももいる。でも、それとは関係なく、私が「おひさま〜」と年長児を呼ぶ声よりもはるかにしーちゃんが呼ぶ「おひさま〜」の声に子どもたちはすぐに反応する。 私だって子どもたちへの「愛」はあります!とここで張っても仕方ない訳で、、、、笑 子どもたちと担任のこの信頼関係も日々の積み重ねの「愛」から生まれている。 うちの保護者の皆さんは、もんすたーぺあれんとってなんですか?と言う具合に、新しい先生へも「愛」を持って見守り育てて下さる。だから私たちも「愛」で応える。 しーちゃんも前の職場では、保護者は最上のお客様、粗相があってはならぬ相手という位置付けで働いていた。だから、Telacoyaに来た時も、何より保護者対応に緊張していた。 今やこの保育業界どこもかしこもそんな話ばかり。 お金払っているんだから、うちの子に、うちの子だけに愛情かけろ!というのか? ベテランならそれで良いのか? 保育士側も保育士側だ!もっと誇りを持って、小手先のサービスじゃなく、愛を込めて保育をしよう! もう一度言います。 愛とは、そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ちです。 そのものの価値を認め=人としての価値、価値のない人間などいない 強く引きつけられる気持ち=ここは保育士側の一生懸命さなどかも知れない そして、愛は育むもの。じわじわと。 燃え上がるような愛も魅力的かも知れないけれど、燃え上がって燃え尽きるのも早い。 子どもたちが火をおこして大切に育てる焚き火のように、育み続ければ、その火は365日焚き続けることだって出来る。 保育者としての私は、たくさんの失敗と粗相を許してくれた保護者の皆さんと先輩たちの「愛」で出来ている。 なんの自慢にもならないが、担任を持っている1年の間に2名も骨折者を出したことがあった。 1名は、保育中に転んで腕を打った。2日目になってもぶつけたところをあまりに痛がるので、心配になって病院に行って頂いたら、三角巾で腕を吊って戻ってきた。 「先生折れてました!私も気づかなかったのに、先生が気づいてくださって本当に良かったです〜」とお母さんから言われた。いやいや1日目に気づけず申し訳ないと平謝り。すると「これね、割り箸みたいに綺麗に割れてるから、それが開かない限り痛みもなくて、あまり気づけないんですってよ。先生すごいですよ〜」と褒めてもらった。 1名は、やるなって言ってるのに(それをやるのが子どもね 笑)滑り台を下から走って登り、案の定ずっこけて顔面を座面に強打。変な鼻血が出て、折れてるなと直感。鼻血だろという園長の言葉を振り切って、隣の担任にクラスの子どもをお願いして、勝手に病院へ。(この辺りが、今じゃありえない、、、)やっぱり鼻を骨折。これからメガネをかけなくてはならなくなったばかりの子だったので、メガネ矯正も延期に。流石に2名も骨折者を出し、凹んだ私はお詫びして園に戻ると、、、、、しばらくして、その子のお母さんがケーキを焼いて持ってきた。「え?????」菓子折り持ってお詫びに行くのはこちらのはずだが、、、、そのお母さん「先生があんまり元気ないから、かわいそうになっちゃって。ケーキ食べて元気出してくださいね」と。ケーキ持ったまま号泣した。今でも思い出すと鼻の奥がツンとする。 こんな保護者は稀かも知れない。でも、確実に私の失敗を責めずに、愛を持って育てて下さったのだ。 逆の出来事もあった。 30年前、当時幼稚園ではお昼には牛乳が出ていた。アレルギーとかでなく、好き嫌いの問題で牛乳が苦手な子がいた。当時は学校に行ったら牛乳だから慣れよう!的な目的があり(これが古いが)牛乳か白湯のどちらかしか出なかった。 私たち先生たちは、お昼に休憩もなくぶっ通しで夕方まで働くものだから、お昼のお弁当の時だけはお茶を飲んで良かった。この一口が唯一ホッとできる昼間のほんのひととき。 ある時、私のクラスにいた牛乳も白湯も苦手な子どもの保護者が、「先生だけお茶を飲んでいるのはずるい」と言って来た。自分の子どもにもお茶を出すか、そういう子の前でお茶を飲まずに先生も牛乳か白湯を飲んでほしいと。当時はお昼のお茶の一杯も奪われるのか、、、という思いもあったが、子どものことを考えて、「わかりました!私も牛乳だけにします!」と言って、私はお弁当の時に牛乳を飲むことにした。 すると、他の先生たちから不満の声が出た。そんな要求飲んじゃダメだ!私たちもそうしなければいけなくなるじゃないか!と。 私は牛乳が大好きだったから(笑)出来る訳で、子どもたち同様苦手な先生がいたら断ればいいじゃないか!と先輩たちにも言い放つような人だった。そして、私はしまいにはそういうなら、なぜ子どもに牛乳を強制するのか?という議論はしないのか?と園長に文句言ったりし始めた。先輩はこれに賛同してくれて、みんなで話し合うことになった。 (今なら、保護者のお申し出があった時点で会議にかけて、幼稚園ごととして話し合うべきですな、これも失敗なのだ 笑) そんな牛乳論争を引き起こした保護者は、卒業の時に長い長いお手紙を下さった。 「自分の子どもだけを中心に考えた押し付けをして、休みなく朝から晩まで働く先生たちへの労いの気持ちのかけらもなく、あんな発言をしたことをあれからずっと悔いていました。けれど、恥ずかしくて、毎日会うのにそのことを悪いと思いながらも詫びることなく過ごして来てしまいました。自分の子どもが大好きな先生になってことをしたんだろうと、最後の最後になりましたが、お詫びを伝えさせてください」ということが書いてあった。 当時、20代後半の私に、30代のお母さんが詫びるなんて行為、なかなか出来たもんじゃないだろうと思う。とても素直な方だった。今でも付き合いは続いている。 「愛」は時に暴走もする。 でも、遠回りしても、「愛」があればきっと大丈夫。 長くなったが、「愛」を持って大人も子どもも、シアワセになれるということが言いたかった。 小さい人への愛は簡単に想像出来る。 でも、新米保育士、新米ママ、新米パパ、新米職員、、、、 みんな大人、でもみんな愛が必要。 そして愛を受けるには、素直な心も必要だね。 今日みたいな春の大嵐の日に、新聞を届けてくれる人、郵便を届けてくれる人、荷物を届けてくれる人にも愛を持ってお礼を言おう!

閲覧数:640回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page